2023/11/14 12:05

1995年、私は17才でした。

高校2年から3年にかけての毎日がドキドキであふれている時期です。
その頃私は特に仲よくしている友達が2人いました。
一人はフランス人形のように美しい姿のお嬢様N子。ひっそりとわがままで気品あふれるN子とは
3年間同じクラスでいつも2人でくっついていました。
もう一人はスペイン系のハーフのような美しい顔だちとボディで気さくなM子。こちらも急に突拍子もないことをする令嬢。
帰り道が中央線で一緒だったのでプライベートはM子と遊んでいました。

17才に私は何をしていただろう?
毎日のように学校がえりはN子と映画を見に行っていました。
当時、及川正通さんの表紙のエンターテイメント情報誌「ぴあ」があって、
授業中、そこに出ている小さな映画館で上映される映画を調べて通っていました。
その時にトリュフォーのフランス映画やフェリーにのイタリア映画、不思議なチェコの映画に出会いました。

それから長い夏休みや冬休みはM子とスキー旅行やダイビング、詩を書いてみたり、フランス語教室、陶芸教室、表参道に青山、ナイトクラブに横浜・・・。
そう、横浜!!


はじまりは17才の夏休みのある日、M子から「海が書いてる詩とか絵を見てくれそうな人がいるよ!」
と電話がありました。「横浜でフリーペーパーを作っている人たちで、海の絵や詩なら載せてくれるかもしれないよ。」
といって連絡先を教えてくれました。
私は早速連絡を取って、そのフリーペーパーを作っている人たちのいる横浜の石川町まで行きました。

そのフリーペーパーは笑酔人(EYOUDO)という名前で、絵や詩やダンスや、映画の事、心理学のワークショップなど、フリーペーパーにかかわっている人の好きなジャンルを集めて載せて発行していました。
リーダーは普段は公務員で当時26歳の通称エンボス君、編集とデザインは今や売れっ子デザイナーのS君その二人が主体で作っていました。
そこに飛び入りで高校生の私が入ったわけです。

「海ちゃんの作品はもっといろんな人の目に触れるべきだよ!」とはじめにエンボス君は私に言いました。
私はとても嬉しかったし、何かが始まる予感、期待、これからのこと全てがその言葉に入っているかのように感じました。
その日の出来事は今でも心の原点にしっかりしまってあります。

そしてその日から横浜に毎日のように通っていました。
高校時代の最後はほとんど横浜にいたかもしれない。
石川町の山の手の方、港の見える公園や外人墓地、フランス料理店、ちょっと行くと本牧。
本牧はアメリカンなバーガーショップがあって、そこで劇団の方や有名なバンドの方に出会った。
みんな大人でかっこよかった。大人たちも17才の私を楽しんでくれていました。
帰りはその中の人がアメ車やランボルギーニで駅まで送ってくれたり、制服の上にミリタリーのジャンバーを借りて関内の古いバーなどに連れて行ってもらったりしました。

その冬、初めて売り物として作ったのがモノクロで描いたイラストのカレンダー。
吉祥寺の行きつけの本屋さんや、パーティーで初めて自作の物を売りました。
「これで海ちゃんはアーティストだね!」
と周りの人が言ってくれました。
それでもまだ絵描きになるとはまったく考えてもいなかったのですが、
知らない誰かが自分の作品を買ってくれるというのは新しくて、嬉しいことの一つでした。

これが私の「17才だった」時代です。